亀山社中とは
亀山社中の主なメンバー・構成員は、
土佐の坂本龍馬のほか、近藤長次郎、千屋寅之助、新宮馬之助、高松太郎、池内蔵太、
山本洪堂、野村辰太郎、石田英吉、沢村惣之丞、中島信行
越前の小谷耕蔵、腰越次郎、渡辺剛八
越後の白峰駿馬、橋本久太夫、
讃岐の佐柳高治、
鳥取の黒木小太郎です。
亀山社中は、慶応元年(1865年)閏[うるう]5月ごろ、坂本龍馬が日本最初といわれる商社を結成した時の名称です。長崎の亀山の地と、仲間、結社の意味の社中から命名されました。のちに海援隊と改名しています。
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薩摩藩のもとで、交易の仲介や、物資の運搬などを行い、さらに、航海技術を習得して、武器の購入、輸送などを行いました。
また、長州藩のユニオン号に乗り込み、下関海戦で、幕府軍を攻撃しました。
しかし、購入したワイルウェフ号が五島列島沖で沈没、又、大極丸は代金未払いにより就航出来なくなるなどが続き運営が困難になり、結局、理想を実現することがないまま、土佐藩の支配下におかれ、名前も海援隊に改められました。
焼肉の起源
焼肉と言うと、朝鮮半島が発祥の地だと思われがちですが、実は、朝鮮の人々が日本で始めたのが、今のかたちの焼肉の原点だといわれています。
ほかにも肉料理は、ハンバーグ、ローストビーフ、ローストチキン、シュラスコ、ケバブ等
たくさんありますが、根本的に違うのは、自分で焼きながら食べるというスタイルです。
日本においても、古くから、獣肉を食べていた歴史がありますが、明確な起源は、判明していません。
江戸時代、一部で猪、鹿、牛、馬などを食していた記録もあります。このころに牛肉の味噌漬けも作られていたことが分かっています。
焼肉とよばれるようになったのは、(1965年)日韓基本条約以降で、それまでは、朝鮮料理、朝鮮焼肉と表示していた多くの店が焼肉(店)と看板を変更してから、この名前が普及したものだといわれています。
詳しくは、明治以前から日本人は鳥や猪などの肉を直火で焼いて食べたり、戦前から牛や豚の内臓を使ったモツ煮込みや、串に刺して焼いて食べるモツ焼きがありました。
今の日本における焼肉料理は、朝鮮と密接に関連していたといわれています。
1930年代中頃、朝鮮南部から大阪の猪飼野に移住した朝鮮人によってカルビ焼きとプルコギが伝わり、これらが当時、既に存在していた朝鮮食堂に取り込まれて焼肉食堂に変わりました。
そして、プルコギとカルビ焼きは当時流行していたジンギスカンの影響により、客自ら焼いて食べるようになりました。
これが「焼肉」の誕生であり、この焼肉を在日韓国・朝鮮人らが、日本の料理文化に適応させながら発展させたといわれています。
焼肉の誕生に直接関係したのは朝鮮人で、満州や朝鮮に広めたのも朝鮮人で、焼肉は日本で誕生したというよりは、日本の大陸進出時に大阪・猪飼野に移り住んだ朝鮮人が生み出したと考えられています。
今の日本の焼肉料理、焼肉店の精肉、内臓の焼肉も発祥は朝鮮半島にあり、1940年前頃に日本に伝えられ戦争中に一時的に途絶えますが、戦後、精肉の焼肉は朝鮮料理店で、内臓の焼肉は朝鮮系の飯屋や飲み屋によって再開されました。
その後、お互いの焼肉を取り入れることで、今日における焼肉店の原型ができ、“焼肉”が隆盛を迎えると、朝鮮系の冷麺店、飯屋、飲み屋も焼肉店に商売替えしたといいます。
日韓基本条約以降、それまで朝鮮料理朝鮮焼肉と表示していた焼肉店の多くが焼肉(店)と看板変更し、この名称が一気に普及しました。
ちなみにホルモン料理は大阪西心斎橋の北極星により提供され、昭和15年に商標登録されています。
戦後、食道園や清香園、その他多くの名店が内地に残る決断をした在日韓国朝鮮人らが、日本における焼肉料理を発展させていきました。
更に世界の肉料理の影響も受けて変化したのが現在の焼肉だといわれています。